Saudade(サウダーデ)


サウダーデとはポルトガル語だ。もともとの語源はラテン語のsolitateといって孤独という意味だ。ポルトガル語ではsolidaoという。

では日本語でサウダーデはというと平凡社のスペインポルトガルを知る辞典には次のようにでている。「懐かしさ」「未練」「懐旧の情」「愛惜」「郷愁」「ノスタルジー」「孤愁」。しかし、どうやらこの言葉くせものらしく、次のように付け加えられている。「しかし、いずれの訳語もサウダーデの表す多面体的な意味のいづれかの面に対応するものであって、それが持つ意味の総体を示す訳語ではない」と。

たとえば、flower=「花」と訳すことができないのだ。しかし、ひとつの単語に訳すのはむずかしくても、そのサウダーデのもつ意味を理解することはもちろん可能だ。

よく、外国語を勉強するときに日本では頭から覚える。つまり、SVCOなどという構文や単語をその言葉が持ついみを理解することなくflower=「花」と頭に詰め込んでいく。しかし、文章によってはこれは「青春」とか若い時の「最盛期」などという意味で使われていることもある。

つまり、花とは花の持つ奥深い意味を考えてみたとき、たとえばそれは輝かしく、儚いが一瞬のすばらしい時間を私たちに見せてくれるなどと感じたとき(つまりそう理解したとき)、人の一生を花に当てはめてみれば、花を咲かせるときというのは人生においての青春時代であったりとその意味をいちいち暗記していなくても自然に頭に浮かんでくるはずだと思う。

そして、ただ単にflower=「花」と単語だけで覚えていては言葉の勉強なんて面白くもなく苦痛になってくるのは当たり前だろうと私はおもう。また受験のためや資格のために覚えるのではやはり言葉がかわいそうだ。言葉もかわいそうだがその言葉の本当の意味を知ることなく勉強している人たち表面だけを勉強して満足を得ているような気がしてもっとかわいそうだと思う。

私は映画や音楽が好きだったから耳から自然に外国語が入ってきた。そのせいか、わたしは単語は知っているけどそのスペルを知らないということが結構ある。外国人の友達とメールでやりとりするときも、辞書はかかせないし、スペルミスは日常茶飯事だ。でも、ちゃんといいたいことは通じるし、コミュニケーションのうえでは別に支障はない。おまけに、高校のときの授業で文法というものを習ったことがないので、記事や本を訳すときはきちんと訳すことはできないが相手の言っていることや思っていることはちゃんと理解できている。

これは、なんとも説明しがたいのだが、感覚的に理解しているのだと思う。だから、もし、それを翻訳しろなどといわれたらものすごい訳になってしまうだろう。きれいな日本語の文章にすることは恥ずかしいが不可能だろう。

しかし、わたしはそれがいっていることは理解しているのだ。つまり、一字一句を訳すことはできないが全体を頭ではなく感覚で訳しているのだ。それは、その単語の意味をたったひとつ頭のなかに暗記していたからはなく、それの持つ意味を深いところから理解しているからだろうと思う。

時と場合、文章の内容によってひとつの単語はたくさんの顔見せてくる。英語のliveは時には「住んでいる」というたわいも意味だが、時として「生きている」という意味にもなる。また、いったいどうしてこの単語がこんな場面でつかわれてしまっているのだ!なんておもうこともよくある。

日本語に訳されているものを否定するわけではないがやはり、映画も音楽も本も原文で接するのと、日本語でみるのとはやはりどこか違う。たとえば、洋楽のCDの日本語訳にされた音楽はなんとなく、原文をよんでみると、原文の持ち味を殺してしまっているなんてことがある。こんなときは、やはりその言語をしっていると「なんだこの訳は!」なんて憤慨することもある。

というのは、その持ち味を損なうような訳しかたをされていると、やはりなんとなく、気分が悪くなる。というのもその言葉を知らない人はその訳を鵜呑みにしてしまう。そして、本当にそれを書いた人が言いたかったことが見えなくなるなんてことがあるからだ。

と話はそれたが、つまり私が言いたいことは、単語や構文を覚えることも大切かもしれない。が、しかし、いったい何のためにその言葉を勉強しているのだろうと考えたとき「受験のため」とか「だって、必要だから」というのはさみしすぎるし、そんなんじゃ勉強する意味がはっきりいってない。

けっきょく、英語だって義務教育を入れて6年も勉強しているわりには、結局使えない人のほうが多いし、そんなんだったら6年もやる意味がはっきりいってない。正直言ってそんなのは時間の無駄だと思う。選択にでもして、好きな人だけがとったほうがよっぽどましだ。人にむき不向きもあるわけだし。

私が大学でスペイン語を勉強していてスペインに留学したとき、外国人にされる質問で本当に嫌なのがあったがそれは「なにを勉強しているの?」と聞かれたとき「スペイン語」と答えて、その後に「それはわかっているけど、で、なにを勉強しているの?」と聞かれることだった。

つまり、外国人にとっては言葉はひとつのなにかを表現したり伝えたりする道具にすぎないのだった。もちろん言語学というり立派な学科があるがそれは別としてだ。

イギリスに留学した時、同じ大学のスペイン語学科でもイギリスの授業内容は日本のそれとはまったく違っていた。正直言ってびっくりした。

私たちは主に文法を勉強した。そして、それに付属してスペインやラテンアメリカのことを勉強した。たとえば、ラテンアメリカ文学や経済史など。イギリスの大学でもこのような内容の授業だった。

しかし大きな違いは、日本の付属している授業が日本語でおこなわれていたのにたいして、イギリスではスペイン語でおこなわれていた。つまり、そこではスペイン語はスペインやラテンアメリカを知るための道具として使われていたのだ。ただ単に単語を詰め込んで「私はスペイン語がしゃべれます」なんてばかげているものではなくそれを実際に使って何かをしていたのだ。

つまり、スペイン語を勉強した理由がそれを使ってなにかを勉強するのためではなく、それ自体を一所懸命覚えて、それを使うということを忘れて、必死にそれだけを追いかけていたのだ。

しかし、言語というのはさっきも言ったように言語学をのぞいては、それを使って何かをするために勉強するものなのだと私は昔から思っていたからいつも学校での語学の成績はよくなかった。

たとえば、私の場合音楽聞いたり映画を見たり本を読んだり外国人の友達と話をしたりするためにそれを使うからそれを勉強する必要があった。だから、文法や構文などは暗記しなかったが本はたくさん読んだし、映画や音楽もたくさん見たり聴いたりした。もちろん、日本語に訳されているものを読んだり見たりすればいいかもしれないが、やはり、原文と訳されたものでは感じ方捕らえ方が違ってくると思う。

だから、言葉を勉強するときはそれなりに自分の楽しい動機があって勉強するほうが勉強する人たちにとってはうそのように意欲が出てきて、頭の中に暗記しなくても自然に入ってくるだろうと思う。

こういう本をついこの間読んだ。ある人がブラジルにバイクでの旅にでた。しかし、彼はポルトガル語が一言もしゃべれなかった。しかし、そこで人々と接しているうちに、彼の気持ちを表現するために、人々と話をするためにポルトガル語をしゃべる必要がでてきた。そこで彼はむさぼるように辞書をみて、出てきた単語を実践でつかっていって、言葉を自分のものにしたといっていた。英語なんて学校で6年もやったのにぜんぜん勉強する気がおきなかったけど、今回はすごい意欲だった、といっていた。つまり、彼は旅を続けるのにポルトガル語が必要だったのだ。

日本語を子供の頃自然に覚えたように。(日本語は私たちの気持ちを表現するための道具だから絶対必要だ)わたしは語学をこれから勉強している人にはただ単語や構文をしかたなく暗記して外だけを固たり、人生においては必要じゃないけど、受験のためだからとかあの大学に入るために仕方なく勉強するというのではなく、その言葉の持つ深い意味を大切にして興味を持って語学に接してもらいたい思う。

つまり、もう一段下げたところで言葉を理解してもらいたいと思う。そこで、この「サウダーデ」は私の言いたいことを表現するのに最適だった。つまり、サウダーデにはたくさんの意味がある。しかし、これを訳す時さっきずらっとかいたような単語を使ってまだ訳そうと思っている人はきっと私の言っていることが理解できていない人だと思うから、このあとは読む必要はないかもしれない。しかし、それをやめてもらいたくてこれを書いているわけだからだまされたとおもって、続きを読んでもらいたい。

スペインポルトガルを知る辞典には次のように説明が続いている。「サウダーデとは、自分が愛情・情愛・愛着を抱いている人あるいは事物(抽象的なものを含む)が、自分から遠く離れ近くにいない、またはいない時、あるいは自分がかつて愛情・情愛・愛着を抱いていた人あるいは事物が、永久に失われ完全に過去のものとなっている時、そうした人や事物を心に思い描いた折に心に浮かぶ、切ない・淋しい・苦い・悲しい・甘い・懐かしい・快い・心楽しいなどの形容詞をはじめ、これらに類するすべての形容詞によって同時に修飾することのできる感情、心の動きを意味する語である。

そこには、たんにそうした人や事物を思い描いたときに心に浮かぶ感情だけでなく、そうした人や事物をふたたび眼の前にしたいと願う思いも含まれている。サウダーデはこのように複雑で豊かな意味を持つ語であるから、外国語で1語によってその意味を表すことは不可能であることも、訳語としてあげられている種々の語の意味の一面しか表しておらず思い出す対象によって訳語が異なるざるを得ないことも明らかであろう」と。

つまり、ずらっと並べた訳だけでは訳せないのだ。頭に暗記した一つ一つの単語だけでは言葉や訳しきれないのだ。もちろんこれはなにも「サウダーデ」だけに限らない。単語の持つ意味を本当の意味で理解している人は文法だとか構文だとか関係なくその人のいっていることがわかるだろう。語学を勉強するときに本当に必要なものは何かという基本的なことを忘れがちになっているのではと最近よく思う。そんな今だからこそ、基本的なことは何だったのかな?ということを思い出してほしい。つまりどうして私はこの言語を勉強しているのかなとか、この単語のもつ意味は他にどんなものがあるのかなとか自分でその単語が持つひとつの意味から連想したりしてみてほしい。そうすれば、きっと言葉のもつ新しい顔に出会えるかもしれないから!

そして、最後にこのスペインポルトガルを知る辞典のサウダーデの説明から、もう少し。

「日本語に則して言えば、たとえば異郷にある人が、故郷にいる家族などのことを、そしてそうした故郷そのものを思い浮かべたときの懐かしい思いもサウダーデであれば、事情があって容易に会うことのできない恋人にたいする思いもサウダーデであり、この世を去った肉親、あるいはふたたび帰ることのない少年時代、そしてその頃の草野球に明け暮れて日々に寄せる思いもまたサウダーデである。また大切にしていた物を手放さざるを得なくなったとき、心に感じる痛み・悲しみを伴う感情もサウダーデであり、家族・親友・恋人などと永く別れるときの惜別の情もまたサウダーデである。」