O que salva o amor(愛を救うのは…)


Barbosa conta a histroria de uma ilha onde vivam os principais sentimentos do homen: Alegria, Tristeza, Vaidade, Sabedoria, e Amor. Um dia, ilha comecou a afundar no oceano; todos conseguiram alcancar seus barcos, menos o Amor.

Quando foi pedor a Riqueza que o salvasse, esta disse:
----- Nao posso, estou carregada de joias e ouro.
Dirigiu-se ao barco da Vaidade, que respodeu:
----- Sinto muito, mas nao quero sujar meu barco.
O Amor correu para a Sabedoria, mas ela tambem recusou, dizendo:
----- Quero estar sozinha, estou refletindo sobre a tragedia, e mais tarde vou escrever um livro sobre isto.
O Amor comencou a se afogar. Quando estava quase morrendo,apareceu um barco
--- conduzido por um velho
--- que terminou salvando-o.
----- Obrigado
--- disse, assim que se refez do susto.
----- Mas quem e voce ?
----- Sou o Tempo
--- respondeu o velho. So o Tempo e capaz de salvar o Amor.

訳:
バルボサは人間の基本的な気持ちが住んでいた島の物語について話し始めた、それらは喜び、悲しさ、虚栄心、知恵、そして愛と呼ばれていた。ある日、島が海の中に沈み始めてしまった。愛以外はみな逃げるための船を手に入れることができた。そこで、愛はお金持ちに自分を助けてくれと頼みに行った。そこでお金持ちは言った。
「僕には君を助けることができない、僕は宝石や金を積まなければならないからね」と。
そこで、愛は虚栄心へ助けを求めた。
「悪いけど、僕の船を汚したくないんだ」と彼は答えた。
愛は知恵の方へ急いで向かった。しかし、彼もまたこういって愛を助けることを拒んだ。
「一人になりたいんだ、一人でこの悲劇をふりかえりたいんだ、そして後になって僕はこのことを本に書きたいんだ」と。
愛は海のそこへと沈み始めた。愛がほとんど死にかけていた時、年老いた老人によって運転されていた船が現れた。そして、彼は愛を助けた。
「ありがとうございます」と愛はお礼を言った。そして、
「あなたは誰ですか」と老人に向かって尋ねた。
「私は時間ですよ」と老人は答えた。
唯一時間だけが愛を助けることができたのだった。

これは私の大好きなPaulo Coelhoがブラジルの新聞に連載している小話である。

いつの時代にも男と女が存在している以上そこには星の数ほどの恋愛の話がある。

愛にはいろいろな形があるだろう。家族を想う愛、恋人を想う愛、友達を想う愛、動物を想う愛と。まあ、たいていの人が愛というと男と女の間に存在している愛を頭に浮かべるだろう。

恋愛とは恋と愛という字から成り立っている。三省堂の国語辞典で私はこの二つの字を調べてみた。まず、「恋」からだ。“男女の間で相手が好きでいつも会いたい、一緒にいたいと思う気持ち(を持つこと)”となっている。

では、「愛」はどうだろうか。“相手の幸せのためにつくそうとする、あたたかい気持ち。恋したしう気持ち。物事を大切に思う気持ち。”となっている。

わたしは、いつも思うのは恋が愛になったときこそ、その関係が本物だったといえるのではないかと思う。というのは、恋は誰でもできるが、それを愛の形まで持っていくことが大変なのだと思う。恋から愛へ発展していく過程には辛いこと、楽しいこと、悲しいこと、苦しいことがあると思う。

きれいな花を咲かせるのには大変な努力が必要だ。太陽と水だけではだめで、その他の要素も必要だ。たくさんの愛情も必要だ。愛の花もそうだ。恋という種から愛の花を咲かせるのには大変な努力がいる。というのは、普通の花はまだひとりで咲かせることができるが、愛の花はふたりで育てていかなければならないので、いろいろなことがおきる。そして、ふたりでその種を大切に大切に育んだとき、いつの日か愛という花を咲かせるのだと私は思っている。

いつも一緒にいたいという自分の思いを満たすだけの気持ちが、いつの日か相手の幸せのためにつくそうとする相手のことを考えることによって満たされるあたたかい気持ちにかわった瞬間に愛の花はみごとな花を咲かせるのだと思う。ただ、いつもいつもきれいな花を咲かせるとは限らないのが愛の花だ。

花を咲かせる道程で二人の間に何かが起こったとき、そのときは決して愛の花が咲くところは見られないのだ。つまり、お互いの間に何かのずれが生じたとき、たとえばそれはお金や物事の価値観の違いであったり、考え方の違いであったり、また自然に起きた何らかの問題であったりと。そのとき、無理に咲かせようとすればするほど愛の花は醜く咲いていく。それは、嫉妬であったり、虚栄心であったりと。

とくに、嫉妬というのは手がつけられない。相手の幸せのためにつくそうとする、あたたかい気持ちの花がいったいどうしてこのような要素から咲くことができるだろう。

わたしは未だにこの愛の花を咲かせたことはない。もちろん、恋の種を持ったことは何度かあるがそれを育てようとはしなかったのだ。いつも、咲かなかったときのことを考えて私は恋の種を持っているにもかかわらず、いつもそれを捨てていたのだと思う。

わたしだって、人なみに、「この人と一緒にいたいな」と思った人はいた。しかし私は、愛の花が咲かなかったときや、それが散ってしまったときのことばかり考えて、種を育てようとはしなかったのだ。そう、愛の花だって、いずれかは散ってしまう。しかし、ここで、おぼえていてほしいことはどんなに見事に咲いた花だっていずれは散ってしまうという自然の法則だ。つまり、永遠に咲きつづける花などどこにも存在していないということを忘れてはならない。

私たちは花を咲かせる過程でいろいろなことを学ぶのだ。水が多すぎたとか、太陽の光が足りなかったとか、また、肥料をやりすぎてしまったとか。そして、その経験をふまえて同じ間違いを起こさないように気をつけて次の花を大切に育てていく。愛の花だって同じことだ。楽しいこと、辛いこと、苦しいことたくさん経験して愛の花を咲かせ、散っていく。そして、次の愛の花をまた、咲かせるのだ。

咲いた花を無理やり咲かせつづけようとすることや咲きもしそうにない花を無理やり咲かそうということは絶対にしてはいけないことだ。それは、自然の法則に反することであり、そこに無理やりしがみついていれば、目の前に育てなければならない別の花があることに気づくことができないことだってあるだろう。

わたしはきれいな花を咲かせようという気持ちより、散ったときの淋しさ悲しさを考えてしまっていつも花を咲かそうとはしなかったのだ。それに、花を育てていく時の楽しみより辛さや大変さのほうを考えいつも花を咲かせることから逃げていたような気がする。

どんなにきれいな花でも最後は散ってしまうのだ。これは人間の手ではどうすることもできないことだ。しかし、それを咲かす過程にどれだけ多くのことを学ぶのかということを忘れてはいけない。そして、その学んだことはきれいな花が散った後でも私たちの中にのこり、次に花を育てるときの大切な知恵として私たちにいろいろなことをアドバイスしてくれるのだ。その、花を咲かせるために学んだいろいろなことこそが私たちの人生でもっとも必要とする部分なのだ。

何かが始まった時というのは、同時に終わりの扉を開いたということだ。人は生まれた瞬間から、死への道を歩き始めているといった人がいた。しかし、いつも私たちは死を恐れて生きているわけではない。私たちは、その間に経験するすばらしいことのために生きているのだ。なにも、死だけをじっと待ってなにもすることなく生きているわけではない。

ここで私がいいたいことは、何かが始まれば、終わりはくるということだ。だから終わることを恐れて何かをはじめないということは本当にばかげていることなのだ。恋愛をしている最中の辛さや悲しさまた、恋愛が終わったときの悲しさばかりを考えて前に一歩を踏み出せない人は、それと同時に喜びも味わっているのだということを思い出してほしい。花を咲かせようと一所懸命になっているときに得る喜び、咲かせた花の美しさを見たときの喜びがあること忘れないでほしい。そして、何度も花を咲かせることによって、たくさんの失敗をして、そして最後には美しい大輪の薔薇を咲かせることができるのだということをおぼえていてほしいと思う。

そして、花が散ったときはまた新しい花を咲かせるまでには時間がかかるが、また新しい花が咲くのだということもしっかりと心にとめていてほしいと思う。