Uma vida simples(何てことのない生活)


私がイギリスから戻ってきてもう2ヶ月以上が過ぎようとしている。しかしいまだにロンドンでの生活がなつかしく、恋しいと思うことがある。贅沢なすばらしくいい生活をしていたのかとなると、そういうわけではない。しかし、幸せな生活を送っていたのだと最近気がついた。

私は大好きなブラジル人の女性と同居していた。私達のほかに日本人の女性が2人一緒に住んでいた。私達が住んでいたところはハイドパークの近くで、メイ・フェアというオックス・フォードストリートをちょっとわきにそれた住宅街だった。今思えば、あのような場所に住めたのはほんとにラッキーだったのだ。ハイドパークまで3分という超ラッキーな場所だった。毎週日曜日ともなるとハイドパークにはたくさんの人があつまり、散歩やサッカーやローラブレイドなどで楽しんでいる人々が見えた。どこに行くにも徒歩で行けるという本当に便利なところに住んでいた。

私達は物価が高く、天気の悪い日が続くロンドンでいろいろと文句を言いながらも楽しく暮らしていた。何てことのない生活だった。しかし、私の周りではこれまでに流れたことのないとても幸せで満足した時間が流れていた。

大好きな人たちに囲まれての生活は私達の心をとても幸せにしてくれた。私達の住む家にはいつも人が集まってきた。私達は家族のようにいつも一緒にご飯を食べ、そして楽しくおしゃべりをしたり。サッカーの試合があればビールやピザをもちよって、一瞬にしてリビングルームはパブになり、ビデオを借りてきてはそこは映画館となり、一人をご飯に誘えばみんながあつまってきてはどんちゃん騒ぎになり、なんだかいつも私達の家は笑い声が絶えなかった。

私と彼女はともに料理が好きだったので料理をすることがまったく苦にならなかった。それどころか、むしろ楽しくやっていた。たいてい、台所では彼女が料理をし私がそれを邪魔していた。その時間がわたしにはなんともいえない心地よい時間だった。たわいもない会話と彼女が作るご飯。そして、必ずご飯を食べ終わった後の1杯の紅茶とお菓子。実は私にはご飯を食べた後にお茶を飲む癖があった。面白いことに、なんと彼女にもこの癖が移ってしまったのだ。

彼女はブラジルはリオの出身であついお茶などめったに飲まなかった。まして、コーヒーの国であるブラジルで紅茶を飲む人は割と少ないだろう。そのかわり、マテ茶というコーヒーに似たようなお茶を冷たくしてビーチで飲んだりしているらしいが。また、絞りたてのオレンジジュースや、ココナツジュースなどとにかく冷たいものが主だ。しかし、一緒に住んでいると不思議と癖とか習慣とかが移るもので、きまってご飯を食べた後に「紅茶飲む?」と聞いてくるのは彼女のほうからだった。そして、決まって紅茶を入れるのは私の役目だった。というのは彼女が食器を洗っている間に私が紅茶を入れるというパターンが決まっていたからだ。それから実はいちど彼女が紅茶を入れたとき、葉を入れる分量がわからず色が出ないといってたくさんいれてしまいすごく濃い味になって以来、彼女はいつも私に紅茶をいれてと言ってくるのだ!そして、その後はお気に入りのノベラ・デ・オイトを2人でみたりした。たいてい11時頃には私達はベッドに入っていた。

ここでまた私達のお決まりがある。寝る前に聞く音楽だ。必ず、私達は音楽をかけて寝た。それは、スティングであったり、エンヤであったり、グラン・ブルーのサントラであったりその日の気分で変えた。これは実は今でも私は癖になってしまい、夜音楽をかけて寝るようになってしまった!

週に1度はスーパーマーケットに買い物に出かけた。たかがスーパーに行くだけなのに私は彼女とのスーパーでの時間がいつもまちどうしかった。ふたりで1週間分の献立を考えながら、ぺちゃくちゃとしゃべり結局いつも長居していた。そしてなんといっても1週間分の食料というものはすごいもので、油や砂糖など重たいものを買ってしまうとあっという間に紙袋が7つにも8つにもなってしまう。歩いて10分の距離が袋が重たいせいもあって倍以上に感じられた。おまけに、日本にいるときは車という文明の力があったが、貧乏学生の私達にそんなものはなく、いつも文句を言いながら私は歩いていた。「車がほしいよー」「重たいよー」と子供のように駄々をこねる私に彼女は、「しょうがないな。ほらひとつよこしなさい」といってはいつもたくさんの袋を抱えて私の横を上手に人ごみをわけてすたすたと歩いていた。

彼女は私にとって、お母さんであり、お姉さんであり、奥さんであり、そして友達だった。私は彼女によく甘えていた。台所でご飯を作っている最中につまみ食いをしては「こらっ!」としかられ、テレビを見ながらご飯を食べて、こぼしては「ほらっ!」と注意され、家でだらーとしては「さあ、泳ぎに行くしたくをしなさい!」といって、無理やり水泳に連れて行かれ(結局は楽しんでいる私だったが…)、夜寝る前に自分が眠くないので邪魔をしては「はい、お休み!」といわれてしまい、泣いている私をみては慰めてくれたりと本当に彼女はいくつもの顔を持っていた。

私達は学校が別々だったので、食事の時間がばらばらのことが多かったにもかかわらず、いつも夜は家でとっていた。彼女は夜、授業があったので、そういう日はたいてい私が彼女の分もご飯を作った。私達は夫婦のように、必ず何かあると電話をして「今日はご飯はいらないよ」とか、「帰りが遅くなるからご飯は先に食べていて」などという会話をして、よく回りから「おい、今日奥さんは?」などとからかわれることもあった。それ以来、私は彼女のことを「奥さん」と呼ぶようになった。いまでも、そうよんでいるが、聞く人が聞けばギョッとするだろう。

また、私達は愛称のように“ババカ”と言い合っていた。これはブラジル・ポルトガル語で“馬鹿”という意味だが私達の間では一種の愛情表現のようなものになっていた。「いってきまーす、ババカ!」、「いってらしゃーい、ババカ!」「おかえりー、ババカ!」など日常的に使っていた。私はとくに、“ババキーニャ”というババカの縮小字でまあ、なんと訳してよいのかむずかしいが、とりあえず“お馬鹿チャン”とでもなるだろうか?!それが気に入っていた。彼女はよく私に、「ブラジルにきて、おいババカなんていっていたらまわりびっくるするだろうなー」とつぶやいていた。しかし、私にとっては愛情を込めた私達だけの呼び方だったのでとっても気に入っていた!

日本にいるときのように贅沢な暮らしではなかった。車もなく、食べるものも比較的質素で、その上貧乏学生なのでめったに外食もできなかった。しかし、ほとんど毎日のようにパブに行ってはみんなで2ポンドちょっとの1パインとを頼んで何時間も居座ったりしていた。そして、週に1度はみんなで9時前に入ればただ!という店で思いっきり踊った。

お金を使わなくても上手に遊べていた。いやお金があったときよりも楽しかった。お金がないぶんいろいろなものを見つけた。1ポンド払えば2時間全てのビールは1ポンドで飲める店、9時前までは入場料無料のサルサクラブ、1パイントが1ポンドの大学のパブ、古くなった映画を上映している2ポンドちょっとの映画館、スーパーで買った缶ビールをもって夜のロンドンをみんなで散策してみたり、食べ物を持ちよって公園へでかけたりと。

とにかく、お金は無くても幸せな日々だった。今はすべてがそろっているが何かがたりない。うまくいえないが、何かがかけているような気がする… ふとそう感じるとき、私はロンドンでのあの生活が恋しくなる。

バス代をケチってどこに行くにも歩き回っていた、マクドナルドからトイレットペーパーやケチャップをこっそり持ってきた、カフェから砂糖を拝借した、あの何の贅沢もしていなかった生活が… 

そして、大好きな人たちにかこまれていたあの何てことのない生活こそが本当はとても贅沢な生活だったのではないかと最近気がついた。なにげないシンプルな生活だったけど幸せだったと思うあの頃がとても懐かしく感じる今日この頃だ。