Cadiz(カディス)


カディスとはスペインの南にある地方都市だ。人口はだいたい16万人くらいだ。その昔はあのアメリカ大陸発見をはたしたクリストファー・コロンブスが船出をした港町だ。紀元前は11世紀から港町として栄えていた。カディスはあのアルファベットを私たちに残したフェニキア人によってつくられた街だ。しかし、いまではセビリアやグラナダの影にかくれてしまっている、静かな街だ。

コロンブスが14世紀にアメリカ大陸を発見した時その植民地支配の中心だったがその面影は今ではまったく見られないくらい静かな港町だ。もともとはイベリア半島と陸続きではなかったが砂州の発達によってひとつになったらしい。とガイドブックのような説明はこの辺にして。私は何度かスペインを訪れているがこの街ほど心をひかれた街はなかった。いったいなにが?グラナダのアルハンブラ宮殿やセビリアのカテドラル(教会)、コルドバのメスキータ(イスラム教寺院)のような有名な建物はなにひとつない。

この辺の海もスペインの有名南一帯に広がる海岸地帯コスタ・デル・ソル(太陽の海岸地帯)にたいして、コスタ・デ・ラ・ルス(月の海岸地帯)とよばれその影になっているせいか観光客も少なく、海には地元の人が多い。しかし、ここには真っ青な空が海との境界線を引くことなく広がっている。それは海の向こうには空が続いているようだ。白い砂浜で人々がとくにかわいらしい16歳くらいの男の子達が上半身裸でサッカーをしている。ものめずらしいのか私のほうをみて、サッカーに誘っている。からかい混じりの誘いに私はつい、無視をしてしまったが… それから、楽しそうに歩いている恋人たち、友達どうし、親子、そしてただなんとなく散歩をしている人々。皆、とても楽しそうだった。

私はそこで、アイルランド人の大学教授にあった。彼は大きな犬と一緒にジョギングをしていたところだった。私たちはカディスの魅力についていきとうごうした。"特別なものは何も無いけど、でも、なにかがあるんだよね、ここカディスには…"というのが彼の切り出しだった。私はこの人は私と同じことを感じている人だとその一言でわかった。彼はなにかに誘われてこのカディスに住むようになったといっていた。わたしは、かれの"何も無いけど何かがある"がとてもよくわかる。それは、そこに住む人々の顔を見れば一目瞭然だろう。私たちは、何でもそろっている世の中に住んでいる。とても便利な。便利すぎて怖いくらいに感じることもある。必要以上に進んだ技術によって作られた必要とする以上の物がこの世の中には氾濫している。その必要以上のものは私たちの青い住みかにいったいどれだけの被害を与えているのか、そこに住んでいる人たちは知らない。

わたしは、よく日本を便利だけど、何もない国だと感じることがある。というのは、外国から、特にスペインのような国から帰ってくると、よくわかる。それは、そこに住んでいる人々の笑顔には本当の笑いは少ないような気がするからだ。戦後の高度経済成長にともない一躍先進国にの仲間入りをし、世界でもっとも豊かな国のひとつになた。そのために払われた犠牲は大きなものだろう。受験戦争だなんだで、幼稚園くらいから塾に通わされ、将来の約束された道を得るためにしっかりと有名大学行きの列車に乗らされ、やっとその列車を降りられたと思ったら、次は社会に出て新しいプレッシャーに悩まされ、そしてなんとなく人生を終えていく人々。本当に彼等は笑っているのだろうか?必要以上の便利な道具たちにかこまれ、生活の本質を失いつつあることに彼等は気づいているのだろうか?生きるという言葉の意味を本当に理解して生きているのだろうか?周りに合わせることによって得ている安心感は本当の安心感なのだろうか?

カディスにはなにもない。ただ青い空と燦燦と降り注ぐ太陽があるだけだ。しかし、それらが作り出す人々の表情はどんなに便利な世界に住んで満足しているわたしたちには作れるものではない。それは体と自然とが一体になって作り出される本当の顔なのだ。作られたものによって得る満足からの顔ではなく、自然にあるものによって引き出される顔はまったく別のものだ。カディスはスペインの都市のなかでも経済的に貧しい都市だ。しかし、経済的には貧しくても、かれらの人生はけして貧しいものではなくむしろ豊かだ。子供たちには子供たちらしい顔が、大人たちには大人たちの顔がちゃんとある。無理をせず、背伸びもせず、自分らしく生きている。いとも簡単に自分らしく生きている人々がカディスにはたくさんいる。経済的に貧しい国だからお金がある人はすくない。しかし、それでも自分らしく楽しく人生を謳歌している。すばらしいことだ。私たちはお金や便利な道具にたよりすぎて、遊びの本質まで忘れてしまっているのではないだろうか。だから、本当の顔に出会えることが少なくなってきているのではないだろうか。

苦しくても辛くてもそれを経験することが大切なのにそれを逃れて、またはそれを逃させてしまっているがために、本当の痛み、苦しみを忘れてしまっているのではないだろうか?作られてできた豊かさが私たちの本当の豊かさを奪ってしまっていることに人々はまだ気づいていないらしいということに気づくのはいつのことだろうか。

カディスには何も無いけど何かがある。カディスには私たちを惑わせる偽りの豊かさはないが、人間の生きるということの本質を教えてくれる何かがあるのだ。と私は思う。だから、わたしは都会での生活に疲れたときカディスの青い空と広い海がたまらなく恋しくなるのだ。きっと、大学教授も何かに疲れていたときにこの街とであったのかもしれない。

年齢のごちゃ混ぜになった子供たちの集団がが砂浜でサッカーをしていたのを見たとき、私は彼等にとってはあたり前の生活の一部がとてもなつかしくかんじた。彼等の素敵な笑顔と笑い声がいまでも、鮮明に眼に浮かぶ。カディスの青い空と子供たちの声に私は今サウダーデの思いでいっぱいだ。